「とりあえず」人を褒めることは罪なんじゃないかと。
篠原 隆司
小飼 弾さんの2009年06月14日のブログより、次の言葉を読んで、「自分の考え」を考えさせられた。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51223632.html
---(↓引用)
しかし、それを「邪教だ」と声高に非難しないのもブッダ的。
あくまで「自分の間違いは自ら見つけよ」というのがブッダウェイ。
釈迦は自ら真理を見つける喜びを相手から奪ったりしないのだ。
生徒から答えを奪うのは、殺生に勝るとも劣らない破戒だったのだろう。
---(↑引用)
つまり、間違いだろうが【答えを教えてしまう】ことは、【答えを見つける】という喜びを奪い去ってしまう行為ということ。
その考え、分からないでもない。
むしろ分かりすぎる。
私も同じ考えだから。
立場柄、私も人にものを教えるという場面に遭遇することがよくあるし、人が作ったものに対してコメントを求められることが多々ある。
私は基本的に【答えを教えない】
答えを教えずに、【答えの導き方】、【ヒント】を教える。
あくまでも、【思考】は受け手側に任せる。
そうすることが「成長するための近道」だと思っている。
目の前の壁を自分で壊せるようになってもらう。
横についていなくても迷わずに歩けるようになってもらう。
100回に一度の「ベスト」と言うならそれを1回で決めれるようになってもらう。
そのために必要なものは経験。
とにかく数。数。数。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
だけど、数打っても当たらない鉄砲は当たらない。
なぜなら、火薬の詰め方を間違っているから。
根本的な問題。
だからといって、周りで見学している人は誰も教えてくれない。
見学してて他のみんなと「何か違うな?」と感じてるのかもしれない。
でも、教えてくれない。
世間なんてそんなものだと思う。
「すごいね」「がんばってるね」「サイコーだよ」「感動したよ」「楽しかったよ」
良い言葉を並べるのはスゴク簡単。
相手の顔色を伺う必要がない。
でも、「火薬の詰め方間違ってるよ」と言うのは、スゴク大変。
相手の気分を害すかもしれないし嫌われるかもしれない。
リスクが高い。
だから誰も、「本当に大事なこと」は言ってくれない。
顔色を伺いながら慎重に言葉を選びながら話す必要がある。
そこで私は迷う。
迷いに迷う。
言うべきか、言わないべきか。
もちろん「答え」そのものは教えない。
「こうしたらどう」
「こういう方法もあるよ」
「この道具、知ってる?」
と、その人が持っていない選択肢を与えてみる。
今までの方法と新しい方法を、本人が使い比べる。
そしたら、「この方法スゲー」となる。
それが教えられたことに感動するのではなく、あくまでも「本人が思考し自身の手で獲得した新しい発見」による感動だ!
その感動は心に残る。
心に残れば忘れない。
次、同じ場面に遭遇したらきっと思い出すだろう。
しかし、その相手が先輩や上司、取引先だったらどうだろう?
下請けならば言うかもしれない。
でもやっぱ、「余計なお世話」と感じたら言えなくなるだろうな・・・。
それが「ブッダウェイ」とも思えないけど。